LOGIN「俺たちも結婚しないか」――テオの突然の求婚に、冷静なエマもたじたじ。クッキーをきっかけにこぼれる本音と、翌朝も変わらず隣を選ぶ二人の甘いやり取りが見どころです。会えない寂しさを分け合いながら、恋の作戦を進めるハヤトとミナにもご注目ください。けれど、恋の進展を喜ぶひとときに届いた検査結果が、穏やかな朝を一変させます。温かな恋模様から、一つの数字をめぐる緊張へ。最後まで目が離せない一話です。今回もおもしろいと思われましたらぜひブクマ、評価、レビューいただけますと泣いて喜びます。
「俺たちも結婚しないか」 テオの声があまりに真剣で、俺は端末を持ったまま顔を上げた。画面には、ミナへ送ったばかりの『予想以上だ。作戦は成功した』という文章が残っている。小さな既読の印までついていた。取り消すには遅い。その間にもテオは、向かいのエマへ身を乗り出していく。 獅子寮の談話室には、クッキーの甘い匂いがまだ漂っていた。窓から入る午後の日差しが白いテーブルを照らし、空になった皿の縁に淡く反射している。さっきまでエマは、テオに何か言われるたび頬を染めていた。普段ならすぐに返す言葉が出てこない様子に、俺まで落ち着かなくなりながら、うまくいきそうだと思っていた。「……何を言ってるの、急に」「ハヤトとミナ、いつも一緒にいるだろ。離れててもさ。俺も、好きな奴とああいうふうになれたらって」「それで、なんで結婚まで飛ぶの」 俺たちはまだ、結婚の話などしていない。そう口を挟むべきか迷ったが、テオの表情を見ると茶化す気にはなれなかった。冗談を言ったあとに浮かぶ、こちらの反応を待つ笑みがない。エマの返事だけを待っているその顔には、隠していたものを一度に出しすぎた危うさがあった。 エマは端末を胸元へ引き寄せた。赤くなっているからといって、同じ気持ちで飛び込めるわけではないようだ。彼女の視線がテオから空の皿へ移り、それから俺のほうへ来かけたので、思わず膝の上の画面へ目を落とした。「なんか変な物でも食べたでしょ」 椅子が床を擦る。エマは立ち上がり、給湯カウンターへ逃げた。追おうとしたテオも、振り返った彼女に空いた椅子を示されると、それ以上は近づかなかった。「待って。まだ返事、聞いてない」「その前に水飲んで。わたしにも考える時間ちょうだい」 差し出されたカップを、テオはおとなしく受け取った。水を飲んでいる間も彼女を見ているので、エマは余計に困った顔になる。そこに拒む冷たさは感じない。それでも、いつもの口喧嘩がなくなっただけで成功と決めたのは早すぎた。エマには、テオほど効いていない。同じクッキーでも、隠している気持ちが同じ勢いでこぼれるとは限らないようだ。 見守っているうちに、背中から重いだるさが広がってきた。光癒を使いすぎてから、座っているだけでも知らない間に疲れが溜まる。俺が休んでくると告げると、テオはすぐ通路の椅子を引いてくれた。こんな時までこちらを気にかける
渡り廊下の白い床を、窓枠の影が細く区切っていた。いつもなら、その上を学生たちの靴が絶え間なく行き交っている。けれど今朝は、端末を抱えた一人が医療棟のほうへ曲がったきり、次の人影が現れない。獅子寮の窓に手を添えて眺めていると、普段は声や足音に紛れている噴水の水音が、妙にはっきり耳に届いた。 端末には、光の病の罹患者増加に伴う講義のオンライン移行と、医療棟の面会禁止を伝える通知が残っている。今朝、一度読んだ内容をもう一度確かめたところで、会いに行けるわけではない。それでも画面を閉じる前に、面会禁止の文字へ指が止まった。ミナの病室の窓はここから見えない。見えないと知りながら、白い建物の上階へ目を向けてしまう。「ハヤト、こっち空けたぞ」 振り返ると、テオが隣の椅子を引いていた。談話室の大きなテーブルには、三人分の端末とノートが並んでいる。いつもは何組もの学生で埋まる部屋も、今は椅子を動かす音が壁まで届くほど静かだ。座って背もたれへ身体を預けると、廊下を歩いたぶんのだるさが腿に残っていた。 講義の音声は俺の端末から流し、それぞれのマイクをミュートにする。講師が資料を開き始めたところで、隣からやけに景気のいい袋の音がした。「いやーラッキーだな。これなら菓子食べながら授業受けられるじゃん」 テオの鞄から、焼き菓子や小さなパイが次々に現れた。俺のノートの角が袋の下へ隠れ、エマのカップにも一つが寄りかかる。講義の準備よりよほど手際がいい。その様子を見ていたエマが、無言で端末へ指を伸ばした。「今すぐミュートを切りましょうか?」「冗談!冗談だよ!」 テオは両腕で菓子を抱え込んだ。慌てるせいで袋が滑り、エマの手前へ一つ戻ってしまう。彼女がそれを拾うより早く、テオが手を伸ばした。触れそうになった指先を、エマのほうが引っ込める。「先が思いやられるわ」 呟きはいつもどおりなのに、そのあとが続かなかった。エマはノートへ視線を落とし、まだ何も書いていない行を指でなぞる。テオも何か言いかけた口を閉じ、拾った袋を彼女の端末の横へそっと置いた。「それは、あとで食べれば」「……うん」 あまりに短い返事に、俺まで顔を上げそうになった。テオが持ってきた菓子をエマが受け取ること自体は珍しくない。けれど、差し出す手も受け取る声も、今朝はどこか慎重に見える。袋に印刷された果実の絵が、二人
「ハヤト?大丈夫?休校届はわたしたちが出しておいたから」 目を開けても、すぐには声のする方へ顔を向けられなかった。白い天井の隅に朝日が溜まり、見慣れた自室の輪郭が薄く滲んでいる。布団の中から腕を出すだけで肩が重い。肘をついて起き上がろうとすると、腹に力が入るより先に息が漏れた。 枕元の端末には、書きかけの連絡が残っていた。「体調不良のため」の先を、まだ打てていない。「休校します」と続けて送るだけのことが、朝からひどく難しかった。指先の震えで隣の文字に触れるたび、消して打ち直す気力まで削られていく。 エマが端末を脇へ寄せ、テオが背中を支えてくれた。自分の身体なのに、起こしてもらうと予想よりずっと重く感じる。背中に挟まれた枕へ沈み込み、ようやく二人の顔が見える高さまで視線を上げた。「ありがとう。連絡、しないとって思ってたんだけど」 「そこは任せろ。理由も考えといたから。ハヤト・キサラギはダンスパーティで食べた菓子に当たって体調を壊した、って」 「なんで俺が食いしん坊になるんだ」 少しだけ、息が笑いに変わった。あの夜の菓子の皿より、踊っているミナの顔の方がよく浮かぶのに、俺は何をどれほど食べたことになっているのか。もっとも、今の顔を鏡で見たら、何を食べて具合を悪くしたと言われても否定しきれそうにない。 実際に身体を動かなくしたのは、昨日、止められなくなった光癒の出力だ。腕の内側には、使い果たしたあとの鈍いだるさが居座っている。けれどテオのくだらない取り繕いのおかげで、そのことから一瞬だけ気持ちが離れた。「口実を考えたのは俺。届けを出したのはエマ。ちゃんと役割分担した」 「得意になるところじゃないでしょ。ハヤト、先に少し飲めそう?」 机の上で容器の蓋が開き、薬草の香りが届いた。受け取ったカップは、掌に収めるとじんわり温かい。すぐに飲まず、しばらく指を添えていた。昨日から自分の手は熱いのか冷たいのかも曖昧で、今になって、爪の先まで冷えていたことに気づく。 テオがスープの器を受け取るとき、エマの袖が容器に触れかけた。彼が黙って袖口を押さえると、エマの手が止まる。「ありがと」と短く落ちた声は、いつもの説明するときの声より柔らかい。テオも何も言わずに手を離したが、そのあと器を持ち替えるまで、少し間があった。 俺はその間を見なかったことにして、茶を口に含んだ
「ついて来ないでくれ。俺は急いでるんだ」 白い廊下に声が響いてから、少し強く言いすぎたと気づいた。それでも振り返らずに足を進める。窓の向こうには、夕日に縁取られたルミナス市の建物が並んでいた。授業を終えた学生たちが連絡通路を渡り、中庭では誰かがベンチに座って端末を広げている。その見慣れた景色のどこにも、俺がさっき読んだ数字は見えない。 光の病の感染拡大を知らせる記事は、講義の資料を閉じた直後に届いた。端末をポケットへしまっても、画面に並んでいた文字が頭から離れなかった。俺自身の症状が落ち着き、ミナが授業を受けられるようになった。そのことにほっとしている間にも、知らない場所で誰かの生活が途切れている。 早く覚醒したい。基礎訓練を終えたところで満足している余裕はない。そう思って歩幅を広げるたび、制服の裾が膝に触れ、背後からついてくる足音も速くなった。「急いでるのは分かってるって」 テオが隣へ並んだ。少し息を弾ませながらも、こちらを見る顔はいつもと変わらない。廊下の先へ向けていた視線を戻すと、反対側にはエマもいた。抱えた鞄の肩紐が、腕に深く食い込んでいる。「何かあった時のために俺たちがいる」「今日は集中する訓練だから、付き合ってもらっても……」「そばで見ているくらい、できるわよ」 エマは立ち止まり、鞄の内側から薄いケースを取り出した。透明な蓋越しに、俺の頓服薬が見える。その隣には小さな水のボトルまで収まっていた。自分の予定を済ませたついでについてきたわけじゃない。俺が困るかもしれない時間を、二人はここへ来る前から考えてくれている。「なんでも一人で抱え込まないで」 責める響きはなかった。それがかえって、言い返しかけた言葉を喉の奥に引っ掛けた。調子がいい日が続いていたから、俺はもう大丈夫だと思いたかったのかもしれない。誰かに心配される自分より、誰かを助けられる自分でいたくて、二人の足音まで遠ざけようとしていた。「……分かった。ありがとう」 速度を落とすと、テオがエマの鞄へ手を伸ばした。「それ、俺が持つよ。肩、痛そうだし」「え……じゃあ、お願い」 肩紐を渡す指が触れ、エマが一度だけ目を伏せる。テオも掛け直すのに妙に手間取っていた。二人の間に流れた短い沈黙を邪魔しないよう、俺は少し先にある訓練場の扉へ手をかざした。 開いた向こうから、空調の乾いた
ダンスパーティから数日が過ぎた朝、獅子寮の談話スペースには、窓から差し込む光がゆっくりと広がっていた。白い壁に反射した明るさが、テーブルの端に置かれた紅茶のカップを淡く照らす。寮の中庭からは、登校する生徒たちの足音や、誰かの笑い声が届いていた。 俺はカップに手を伸ばしかけたところで、向かいに座るテオの視線に気づいた。「なあ、ハヤト。ミナに『どこへでも行きたいところ全部行こう』って約束したんだって?」「……誰から聞いたんだよ」「ミナ。昨日、少し話したときに教えてくれた。すごく嬉しそうだったぞ」 テオは端末をテーブルに置き、いたずらを思いついた子どものような顔で笑った。こういうときのテオは、答えを聞く前から次の一言まで用意している。「それ、かなり壮大な約束じゃないか。世界中を回る気か?」「行きたい場所があるなら、一緒に行きたいと思っただけだ」「いいねえ。格好いいな。俺も今度、エマに『どこへでも連れて行く』って言ってみようかな」「やめておきなさい。あなたの場合、行き先を決める前に道に迷うもの」 隣で紅茶を飲んでいたエマが、カップを置いてすぐに返した。言葉はいつもどおり落ち着いている。けれど、返したあとの彼女はカップの縁へ目を落とし、指先で取っ手を確かめるようになぞった。「あれは道に迷ったんじゃなくて、近道を探してただけだ」「案内表示を二度見ていたのに?」「確認は大事だろ」「確認したあとも、反対方向へ歩きかけていたわ」「それは……たまたま目についたものを見てただけだ」 テオは苦しい言い訳を続ける。普段ならエマは、そこでさらに正確な事実を重ねるはずだった。ところが今日は、彼女の返事が少し遅れた。テオが笑って視線を向けると、エマは先に目をそらし、カップを持ち上げた。 パーティの夜から、二人の間には小さな変化が残っている。会話はいつもと同じように続くのに、目が合うと片方が視線を外す。テオが軽口を重ねたあとには、エマの言葉がほんの少し詰まる。俺が知っている二人の間に、確かに新しい空気が加わっていた。 僅差で優勝が決まったときのことを、ふと思い出す。最後の得点が表示された瞬間、会場を満たした拍手と歓声。テオがエマの手を取ったとき、彼女は一度驚いたあと、きちんと握り返していた。プレゼント交換では、互いに選んだ品を手にして、二人とも照れたように笑って
「ハヤト!」 弾む足音と一緒に、聞きたかった声が廊下の奥から飛んできた。 顔を上げると、淡い水色のドレスを揺らしながら、ミナがこちらへ駆けてくる。肩に掛けた白いケープは片側へずれ、丁寧に整えてきた栗色の髪も頬へ何本か張りついていた。 細い肩が息を吸うたび上下している。 来た。 ミナが、本当に来てくれた。 その姿を認めた瞬間、何時間も身体の内側を締めつけていた力が抜けた。 腕に抱えていたブランケットを落とさないよう胸へ引き寄せたまま、俺は膝から崩れ落ちた。「もう、来ないかと思った」 自分でも驚くほど弱い声が出た。 ミナは俺の前まで来ると、乱れた呼吸を整える間もなくしゃがみ込んだ。走ってきたせいか頬には熱が差しているものの、目元には拭いきれない疲れが残っている。「来ないわけない」 息の合間にそう答え、ミナは笑った。 その笑顔に安心しかけたが、すぐに医療戦士としての意識が戻ってくる。 俺は床に膝をついたまま、唇の色と呼吸の間隔を確かめた。苦しそうな咳はない。手首の医療バンドには、状態が急激に悪化していないことを示す青い光が灯っている。 ただ、その端には注意を示す淡い黄色も残っていた。「走ってきたのか?」「最後の廊下だけ。なるべく歩いたよ」「なるべく、じゃない。今日は検査も受けたんだろ」「だって、もう始まる時間だったから」 ミナは浅く息を吐き、白いケープの内側へ手を入れた。取り出したのは、俺も見覚えのない小さな布袋だった。「検査結果が出るまで、思っていたより時間がかかったの。先生から参加してもいいって許可をもらって、着替えて、それから……」「それから?」「手袋を病室に忘れたことに気づいた」 ミナが布袋を持ち上げる。「まさか、それを取りに戻ったのか?」「今日、渡すって約束したから」 叱る言葉が喉まで出かかった。 検査を終えたばかりの身体で、忘れ物のために医療棟へ戻り、開始時間に間に合わせようと走るなんて無茶に決まっている。 けれど、布袋を握る細い指を見た途端、その言葉を飲み込んだ。 今夜の約束をミナがどれほど楽しみにしていたか、俺も知っている。病室で手袋を編みながら、完成したらダンスパーティで渡すと何度も話してくれた。 その約束を守るため、ミナはここまで来た。 嬉しいのに、不安が消えない。強く言えばせっかくの笑顔